2017年9月29日金曜日

味方付近を通過する新潟交通電車線 モワ51

1980年9月 新潟交通電車線 味方駅付近  電動貨車モワ51が燕方面に走り去っていった。
白根までは貨物扱いがあったのでもしかしたらそのための回送だったのかも知れない。
2017年9月24日  月潟駅に保存のモワ51号

この日の月潟駅も天気が良く 公開には大勢の人々で賑わっていた。

2017年9月28日木曜日

115系N33とN40

2017年9月26日 115系N33115系とN40湘南色の編成。 どちらも2014年以降に長野からやってきた編成である。湘南色も2011年に塗り戻されたN2、2014年のN23もすでに鉄くずと果てた。
2014年に長野から来たN40(旧長野N9)が最後の湘南色となっている。またN33も最後の第2次新潟色である。そこに70系新潟色と第一次115系新潟色が加わり営業用では5色となった。

どこにもあって特別魅力を感じない単に移動の手段用と認識していた115系も今は運用が激減してしまった。
色だけはバリエーションが増えたがそれは全廃への一里塚に過ぎない・・・・

あれだけあった115系がわずか一瞬で淘汰された事実。時代の変化の恐ろしさを感じる。

2017年9月27日水曜日

115系第一次新潟色と懐かしの70系新潟色

2017年9月27日 越後線にて 先頭は115系N3編成の懐かしの70系新潟色後ろは115系N37編成第一次115系新潟色。呉越同舟である。越後曾根付近。

この編成の色は70系色は1964年9月13日に当時の国鉄新津工場出場のモハ70112とクハ68015ともに長岡第二機関区所属からはじまった。また第一次115系新潟色は1987年の2月にはこの塗装が出ているのでそのあたりだと考えられる。

参考文献鉄道ピクトリアル 2002年2月 特集70系電車より瀬古龍雄「新潟地区で活躍したモハ70系電車の思い出」 

2017年9月26日火曜日

郷愁の私鉄駅~新潟交通電車線月潟駅

2017年9月24日 公開された月潟駅の内部。当時の時刻表が・・・・
末期のダイヤのためか本数はそれほど多くない。
改札口・・・・・ヘルメットは保存会の方々が活動で使うのであろうか?
冬場の車両のシート取り付けと春の取り外しそれに各種保守作業。高所作業も多いはずである。
月潟駅と記したところですでに駅ではないがいまでは「新潟交通電車線」が存在したということを示す重要な遺産である。この日も多くの方々が駅舎を訪ね列車が走っていた時代に思いをはせておられた・・・・


筆者が新潟交通電車線に初めて乗車したのが秋ごろだった。燕から味方までと。味方~東青山そして県庁前だった。天気が良く列車がススキの小道をのどかに走っていた。


2017年9月25日月曜日

コスモスと新潟交通 モハ11

2017年9月24日 月潟駅  町内の祭礼に合わせて電車の公開がされた。駅構内にはコスモスが。
シートで覆われてしまう冬以外は季節を感じることができるスポットになった。

2017年9月24日日曜日

鉄道ピクトリアル11月号は72系旧型国電ほかに弥彦駅の絵葉書

1986年6月 クモヤ90101と115系中間電動車2両とクモヤ90006 (新潟運転所上沼垂支所 撮影会に参加してのもの)
鉄道ピクトリアルの特集は72系旧型国電。首都圏や近畿圏、名古屋周辺で通勤輸送に用いられた20メートル車体で4扉の電車のことである。新潟県内は配置がなかったが写真のクモヤ90型牽引車とクモニ83型荷物電車が国鉄末期まで走っていた。 クモヤ90は181系電車があったころは茶色+湘南+特急の混合などで走ることも多かった。
国鉄が分割民営化されて30年が過ぎた現在これらの車両も存在しない(1両がモハ63638として名古屋のリニア鉄道間に保存されている)

筆者の乗車・撮影履歴は広島鉄道管理局の可部線と金沢管理局の 富山港線のみ。ほか東神奈川電車区で休車になっていたものを見た程度である。

さてなじみのない72系はこれくらいにして雑感を
白土貞夫さんの絵葉書の中の国鉄ローカル線のコーナーがあり第33回は弥彦線。

1916年10月16日越後鉄道の西吉田(現:JR東日本吉田駅)~弥彦駅間開業。
駅舎は今と変わらず。 戦前の観光や行楽は寺社参拝が多かったようでそれらをイメージした駅舎が多く見られた。
弥彦駅も弥彦神社への玄関口であった。またすぐ裏手に弥彦公園があって園内に越後鉄道に携わった久須美東馬の銅像も
絵葉書は周りに建物が無くがらんとしている。(第1枚目)

第2枚目は弥彦駅の構内で今はない対向ホームがあった。通常使用されておらず祭礼や正月の臨時列車をさばくのに使われたかもしれない。

第3枚目は北三条駅であるがこちらは本願寺づくり。仏教建築である。浄土真宗東西本願寺の別院があり「おとり越し」という宗祖親鸞聖人の法要には大勢の参拝客が訪れていたと思われる。
北三条駅は、1962年に改築された。その後1997年に高架開業したため高架駅となりJR東日本の新潟県内唯一の高架駅である。
仏教建築の由来となった北三条駅近くの西本願寺別院は長岡市与板地区に移転してこちらも存在しない。現在は東本願寺別院が残るのみである。

弥彦線と言えば通勤型気動車キハ30、35型が知られているがもし越後鉄道が電化されて開業しそれが国鉄に買収されて戦後の大混雑時代を迎えていれば72系が走っていたかもしれない。その後開業するであろう新潟~長岡間の信越本線を含めて・・・・・
弥彦線は電化が1984年でキハ35系に代わって115系が導入された。クロスシートのある近郊型だったが、すでに大混雑時代を作った燕の洋食器などの産業拠点も駅周辺から郊外に移転して通勤手段はマイカーになっていたので通勤型電車が入り込む余地もなかった。(ロングシートを入れる可能性もなかったわけではないがその場合105系か115系をオールロングシートに改造するかされただろうと思う。4扉の103系が導入されたかどうかはわからない)

1960年代の信越本線新潟~長岡間電化の頃は新津~新潟間の通勤事情は悲惨さを極めていて70系どころか72系を望む声もあったと言われている。 もっとも70系と72系、さらに80系と戦前型を混ぜた編成が走り回っていたかもしれないが・・・・・楽しい妄想である。

新潟県内でも72系が走ったことはあるようで昭和39年(1964年)6月19日に発生した新潟地震で新潟駅の転車台が被災したため首都圏から電車を大量に借り入れて混乱をさばいている。そのなかに三鷹電車区のクハ55、モハ72、クハ76と津田沼電車区のクモハ41、モハ72、クハ79があった。(参考文献 鉄道ピクトリアル2002年2月 特集モハ70系電車より新潟地区で活躍したモハ70系電車の思い出 瀬古龍雄)

今は故人の瀬古龍雄先生の記録から・・・・

三鷹電車区 クハ55523、モハ72853、モハ72854、クハ76036
津田沼電車区 クモハ41047、モハ72167、モハ72229、クハ79206

ほかに新前橋電車区から80系を借りていた(内容省略)








秋空を駆ける~70系新潟色

2017年9月23日 秋分の日 115系N3(70系新潟色)の新井からの快速3373M
ちょうど背後は青空が広がっていたので・・・・
この後曇り空になり 午後返しの3372Mは曇り空の中を・・・・



115系としては第1次新潟色=新津運輸区のキハ40、47などの色が大宮を出場して新潟にもどったようだ。塗り替わったのは2013年に長野から転入してきたN37編成である。

2017年9月23日土曜日

鉄道院新橋の記憶~荻川

2017年9月18日 荻川駅前 かつて跨線橋に使われていた支柱を用いた照明塔。
明治43年鐡道新橋の文字がうっすらと
荻川駅が橋上化された際に取り壊された跨線橋の部品だった。
鉄道院時代の貴重な支柱であることが解説書きに記されている。


さて1910年=明治43年とは・・・鉄道院総裁は後藤新平 
新潟の鉄道百年の年表では
新潟県内では岩越線(磐越西線)新津~馬下間開通 10月25日、喜多方~山都間12月15日開通。

国内では3月19日に青函航路が国有化、4月21日に軽便鉄道法が公布されている。
歴史の転換点だったようだ。




2017年9月21日木曜日

DD51756 牽引磐越西線普通列車

1985年8月 DD51756〔東新〕牽引の普通列車 226レ 回送を入れて9連の長大編成。
2両程度が標準の今の磐越西線では信じられない長大編成だった。
中間の荷物郵便車スユニ50もいいアクセントだった!

2017年9月19日火曜日

新潟市秋葉区車場の信越本線のアーチ橋~荻川駅付近

2017年9月18日 信越本線荻川~亀田間にかかる小さなアーチ橋で道路をオーバークロスする。
しばらく進むと小阿賀野川鉄橋となる。

車場川拱渠(くるまばがわきょうきょ)という。1891年(明治30年)にれんがをねじまげて積むねじりまんぼという工法で造られた。けたに注意の標識のすぐ下には斜めに曲がったレンガが見えるがこのことでしばらく左手の下の方に見える。奥の方は複線化の時にできたためかのっぺりしているだけであるが・・・・

明治に開業した信越本線線路をくぐる橋の一方はたいていレンガである。
その古いめいじのレンガの上を走るのは生まれたての新参者E129系である。
蒸気機関車としてはC57180のばんえつ物語もここを夕方新潟に向かって力走するはずだが、来年に新潟駅の高架工事の一部が出来上がると蒸気機関車は再び姿を消すそうだ。

2017年9月18日月曜日

キハ55 165~1979年十日町

1979年2月11日 飯山線十日町駅 キハ55165〔長野〕 準急型気動車でこのころは急行色に塗装されていた。 今見て分かったことだがこのキハ55165は前面の赤い塗りわけ部分の面積が広い。長野のキハ55系はこのような塗装がよく見受けられたようだ。
 キハ55系(キハ55、キハ26、キロハ25、キロ25)は当初クリーム色に窓下赤帯1本(2等車キロハとキロは青帯)が急行に運用されると画像のような急行色になった。こちらも様式はいくつかあって前面の貫通扉で赤色がVの字になる様式で側面は前面から乗務員扉を含めて客室窓をすべて赤で塗装。
これは急行「アルプス」「しなの」「みやぎの」などの時代のものであった。
その後は前面の赤は狭くなって乗務員扉の部分の赤は省略された。これがキハ55系の標準塗装だったがこの車両は折衷したような印象だった。


キハ55-165は1959年12月25日に帝國車輛で製造され田端機関区配置最終配置は長野運転所で廃車は1983年1月7日だった。

参考文献 鉄道ピクトリアル729号 2003年(平成15年)  特集キハ55系

嵐の前触れ

2017年9月17日  台風が九州の沖合にあった時間。朝6時過ぎ始発420Mが長岡を目指して発車。
空には細かいうろこ雲のような雲が多数みられた。

2017年9月17日日曜日

スターライト舞浜?E653系 いなほ編成が信越本線を下る

2017年9月17日  信越本線  東京から夜の闇を走ってきたE653系が越後平野の朝を走る。
舞浜の夢の乗せて・・・・・ E653系が国鉄時代にいたわけではないがこの界隈で見る「いなほ」の文字は遠い時代を思い出してしまう・・・・特急「いなほ」が当地から消えて35年が経過する。

2017年9月16日土曜日

黄金色の海を駆ける

2017年9月10日  EF510牽引の4059レが走り抜ける。 青空と田の黄金色を見ながら・・・
4059レは100キロ運転であり、走行音はどことなく寝台特急を思わせる。

2017年9月15日金曜日

EH200-6牽引 2092レ

2017年9月10日  EH200-6牽引の秋田貨物~東京貨物ターミナル間の列車。早朝に新潟駅を出て上越線経由で東京貨物ターミナルに向かう。日中見ることができるEH200である。夕方の6082レは土曜、休日は運転をしない。


本日の投稿からHNをsnow cloudに変更しました。

2017年9月14日木曜日

EF510-2 3098レ



2017年9月10日  EF510-2牽引の札幌貨物ターミナル~福岡貨物ターミナル間を走る3098レ  北海道の農産品を乗せたコンテナが満載となっていた。 日本国内最長距離のコンテナ貨物列車。

2017年9月13日水曜日

実りの秋を走る~蒲原鉄道

1983年9月 蒲原鉄道狭口(せばくち)付近  いまは五泉市に保存モハ41型の現役時代。
稲ははさ木に掛けられていた。 のどかな越後路の秋。

2017年9月12日火曜日

青空を背に走る115系快速

2017年9月10日 115系N3編成の快速。青空と色づいた稲を見ながら走る。
70系新潟色も半年以上を経過した。9月下旬に登場する115系初代新潟色と合わせると5種類の塗装となるがこれは消滅への前哨戦というだけのことである。

2017年9月11日月曜日

四尺玉号~E653系

2017年9月10日 信越本線 新潟と来迎寺の区間を走ったE653系
片貝の「四尺玉」見物に向かう人で混雑。

2017年9月10日日曜日

29622(9600形式)と魚沼鉄道客車 ハ2~新潟市中央区 自然科学館

2017年9月10日 新潟市中央区の自然科学館  魚沼鉄道(国鉄魚沼線)の休止前の軽便客車。
戦時中の休止期間に頸城鉄道に引き取られて活躍した。
1968年10月に頸城鉄道の一部廃止で廃車となりいったん新潟鐵工所に保存されたが1981年に自然科学館に展示された。

ということで30年以上ぶりに見学。昔瀬古龍雄先生らと見学して以来である。
くびき野レールパークにはハ6が残っているがこちらも魚沼鉄道出身である。廃止後神戸の篤志家に引き取られていったが2004年に頸城に里帰りして動態保存されている。

てっきり館内にあると思い全部見て回ったが見当たらないのでフロントに尋ねると割と引っ込んだ場所にあるとの事だった。ちなみに魚沼鉄道という用語では通じなかった「貨車のような車両」とか。
車内の様子  コンデジを高く持ち上げて撮影したもの。 車内には入れないのでご注意を。


ほかに現役経験のある車両としては29622蒸気機関車(米坂線)があるがいったん北海道に転属して廃車になった際に三笠鉄道村の9600形式と車体が入れ替わっているといわれている。
この機関車を見るのも30年以上ぶりであった。 瀬古龍雄先生以下この自然科学館で鉄道展が行われることとなりコレクションや写真など多数を展示したのも思い出である。全国組織の会だからできることであった・・・・瀬古龍雄先生もこの世にはない・・・

自然科学館には3階に鉄道関係のギミックがあり見学者でにぎわっていた。
現在ここで鉄道関連のイベントがされることはないようだ・・・


キハ47 504~吉田駅 1978年

1987年9月 吉田駅にて キハ47504(新ニイ)  キハ17などの置き換えとして新潟鐵工所でつくられ、10月2日のダイヤ改正から運用に入ったが、何らかの理由で吉田駅に留置されていたもの。

ダイヤ改正時に越後線沿線に配布された時刻表には「祝 キハ47型運転」という文言が記載されていた。またニュースでも流れていたが、実際は一部列車が走ったのみで日中は見かけることはなかった。ちょうど2014年12月に運用を開始したE129系電車の始まりと似ているかもしれない。

このキハ47504は1985年まで新潟県内で使われたのち四国に転属となった。その後冷房取り付けなどがされたが2010年に廃車となっている。

2017年9月8日金曜日

キハ11-11 ~飯山線十日町

1979年2月11日 飯山線十日町 キハ11-11〔長野〕を先頭に気動車列車が行く。
雪まつりの輸送のため混雑していた。 長野運転所にはキハ11が4両(10、11、12、42)配置があったが同年にはすべて廃車になっている。

キハ58系はすべて冷房付きと豪華だったが「ちくま」「越後」の運用が無くなり「野沢」のみのためほとんどがローカル用だった。

線路わきの自動車も今では見られない形が多い。

2017年9月6日水曜日

全室荷物車キニ56-4~飯山線十日町

1979年2月11日 飯山線十日町 3番線 キニ56-4  全室荷物車が十日町に。
今思えば不思議な光景である。閑散ローカル線に全室の荷物車とは・・・・
ちなみに只見線、大糸線はキハユニ26という客荷郵の合造車だった。
飯山線もキハユニは配置されていたようだが・・・・

キニ56-4は1978年9月30日に長野工場でキハ55-159を改造。1984年3月5日に水戸に転属するまで飯山線で走り1986年11月25日に廃止。水戸はあの常磐線の荷物列車だったようだ。
塗装はご覧の急行色だったが1981年の時点で朱色1色になっていた。
残念ながら全体の形式撮影はできなかった。運転台付近を撮影できたのみ。
































EF510-510 4060レ

2017年9月3日 刈り取りが進む水田を横目に北海道からの4060レが通過。久しぶりに見る銀色のEF510だった。
115系新潟行きの快速  稲刈りとの邂逅も今後は多くないかも。




コンバインと115系6連  稲刈りもかなりの勢いで進行中。

関係ないが早稲米を先日買って食べてみた。さすがに腐っても鯛無からぬ腐っても新米といところ。
昨年のコメとは味わいも香りも異にしていた。 まもなくコシヒカリの刈り取りも進み出回ると思う。

2017年9月5日火曜日

初秋

2017年9月3日 EH200-18牽引 2092レ 日の出がかなり遅くなった。
この列車は毎日運転で秋田貨物~東京貨物ターミナルの運転。
E129系の始発長岡行き普通電車 側面に朝日を受けて
稲刈りサンデーとなる一日の始まりを告げる。
新潟方面に向かうNODOKAが最後の秋を行く。2001年秋のデビューいらい走り続けてきたが引退の日が迫っている。もう来年の秋はないそうだ。



2017年9月4日月曜日

飯山線十日町 腕木式信号機

1979年2月 新潟日報社の「写真集新潟の鉄道百年」に出ていた腕木式信号機が残る十日町駅まで遠征してきた。キハ58系6連の「十日町雪祭り」号での往復。十日町雪まつりのための専用快速列車で新潟~十日町間の運転。土曜は新潟→十日町が午後、十日町→新潟夜で日曜は新潟→十日町が午前、十日町→新潟が夕方という運用だった。キハ58系と記載したがキハ55やキハ17などが入ったこともあるようだ。 

さて十日町の機関庫があるあたりでターンテーブルに給水塔も見える。C56がいたころの風景が残っていた。腕木式信号機はその後廃止されて1982年には通常の信号機となっていた。
2017年6月24日 現在の十日町駅  ほくほく線が開業し高架線路のため見通しはよくない。
しかし、十日町終着列車のための車庫は健在である。

十日町雪まつりの列車はほくほく線が開業するまでは気動車で運転されていたようだ。
ほくほく線開業後は電車化されて最初は165系ムーンライト編成で近年はE653系7連が使われている。


2017年9月3日日曜日

雪に埋もれた線路~十日町

1979年2月 十日町市  十日町駅から千手発電所への資材輸送線とおもわれる。
「写真集新潟の鉄道百年」(1978年新潟日報社)に十日町駅の腕木式信号機が残る写真が出ていたのでこれを見たくて出向いたときのものだ。ちなみにこの書籍には資材輸送線の写真は出ていない。どうして知りえたのか?十日町へ入ったことがなく(鉄道目的の遠征はこれが最初)下調べに購入した十日町市の地図に資材輸送線の線路が十日町駅から分岐しているのが描かれていたのでそれで判明したのであろう。十日町駅からしばらく歩いて小さな踏切りを発見した。これが目的の資材輸送線だった。ほとんどは雪に埋もれていて踏切りしか見ることができなかった。
雪が積もっているということは線路は使用されていないということである。しばらくして撤去されたようだ。

ほか十日町雪まつりや十日町駅構内の気動車列車を眺めまだ工事中の(このころはまさかできるとは思わなかった)ほくほく線をながめなぜか着物の写真まで撮影しているし(十日町は着物の街)渋滞している駅前の写真もあった。

DD51 745〔長岡〕牽引上沼垂座敷

 1987年10月 磐越西線馬下付近  会津若松からのお座敷列車。雨のため線路が濡れている。
DD51745は分割民営化のよりJR東日本に所属し長岡運転所配置となった。通常は新津運輸区で管理がされていた。 磐越西線の普通客車列車はJR貨物東新潟機関区のDD51が用いられていたのでもっぱら臨時列車牽引用として走り回っていた。(JR貨物に貸し出しの実績あり)
上沼垂のお座敷は1988年9月に塗装変更と編成分割が可能な仕様に変更されるので国鉄色の編成とDD51745の組み合わせは1年と少しの期間だった。またDD51745の中央副灯は使われなかった。
この時代は日中ライトを点灯することもまだなかった。

キハ40の単行

2017年8月27日 回送表示のキハ40単行  この区間ではあまり見かけない車両ではある。

2017年9月1日金曜日

第一次新潟色復活

1982年10月 信越本線荻川の小阿賀野川を渡る第一次新潟色115系3両編成。1996年以降見られなくなっていたこの塗りわけが復活するようである。すでにJR東日本新潟支社のサイトに案内がある。
「115 系信越 120th」で特別運転がされよう。