2017年4月30日日曜日

115系第一次新潟色~上越線石打

1997年8月上越線石打にて 国鉄時代末期より採用された青、赤、白の新潟色。
まだ正面の青帯が1本のものである。 115系の先頭改造で1000番代のものも2連が登場。
上越線などの閑散線で活躍を始めた。石打駅1番線で越後湯沢に向けて回送待ち。
国鉄からJRに変わった当初はまだ石打構内も広く臨時列車の留置線も健在。
ターンテーブルもあり1991年のD51498の運転や1998年のEF5861レトロトレインの待機も行われている。その後は合理化のため上下本線と 引き上げ線だけになり1番線も廃止されてしまった。
(2000年代になると客車の臨時列車は越後湯沢までプッシュプル運転で動かす方式になった。また貨物列車の補助機関車連結でも知られていたが国鉄末期ダイヤ改正で南長岡~水上間の運用に変更されている)

2017年4月28日金曜日

E653系「しらゆき」上越妙高

2017年4月6日 えちごトキめき鉄道上越妙高に到着の「しらゆき」4号  降りた客は30~40名ほどだった。

2017年4月26日水曜日

北越急行HK100型 直江津

2017年4月6日 直江津にて  北越急行HK100型 一般車とゆめぞらの2連

2017年4月24日月曜日

満開の桜と115系快速列車

4月16日 満開の桜を背に115系快速が走る。 この後連続で暴風が吹いて一気に葉桜に変わった。

2017年4月23日日曜日

鉄道ピクトリアルの特集は特急「あずさ」50周年

1982年3月 中央本線大月 通過した直後の189系「あずさ」  このころの特急「あずさ」は幕張の183系0番代と長野の189系系で運転されていた。  特急「あずさ」は1966年(昭和41年)12月12日のダイヤ改正で新宿と松本の区間に登場したものである。田町電車区の181系で上越線特急「とき」と共通運用だった。その後183系は1973年導入。189系は1975年12月6日に181系を置き換えている。

朝日を浴びて走るEH200貨物2092レ

4月16日 2092レ EH200-7  上ったばかりの朝日を側面に受けて走る。 

2017年4月20日木曜日

EF510-1  3097レ 短い桜の季節

4月16日 EF510-1牽引の3097レ  満開の桜を背に。 その後連日の暴風によって桜は散っていった。

2017年4月18日火曜日

北越急行で荷物輸送開始

北越急行の六日町とうらがわらの区間で佐川急便の荷物を客室の一部を利用しての荷物輸送がスタート。車内に荷物が入った台車2台をHK100型電車の車いすスペースに固定して輸送する方法がとられた。土、休日を除いた夜間の列車での運転である。


国鉄時代は有人駅であれば荷物輸送は行われていて客室の隅っこに荷物が積まれているのを見たことがある。これらは拠点の駅で積み替えられたと思う。ある程度利用があれば荷物室付きの車両が使われた。
 国鉄荷物輸送は1986年11月1日のダイヤ改正で新聞輸送などの一部を除いておこなわれなくなった。

荷物輸送も廃止後30年が過ぎて人々の記憶からも遠くなっている。そのため客室内の荷物の台車に違和感を感じる人がいてもおかしくない。

一般の荷物輸送が廃止されても道路事情がよくないところではJR物品の輸送でも「荷」という文字の記された幕で車内の一部を仕切って輸送をしていた。飯田線で見かけた。車両は今はない119系電車であった。

2017年4月17日月曜日

越後線 115系N40編成

4月16日 115系湘南色N40編成  東三条発寺泊行き  

2017年4月16日日曜日

桜に彩られる古豪~新潟交通の保存車両

 2017年4月15日  西蒲区にある新潟交通の旧月潟駅跡  駐車場から満開の桜を入れて。
現役時代は線路敷きだったのでこのような撮影はできなかった。
 ホームから 保存会の方々により懸命に管理されているが厳しい気候との闘いは終わっておらず劣化が見られる場所も多い。
キ116と桜を入れて。 ホームはずれにはこの路線の創始者の奥山亀蔵を称える石碑がある。

1999年4月4日廃止。もう18年の歳月が過ぎた。

2017年4月14日金曜日

北越急行HK100 信越本線

信越本線田上付近を走るHK100 開業20周年のマークがついていた。

2017年4月12日水曜日

115系 第一次長野色

1993年2月 115系第一次長野色 いまは上越妙高になっている脇野田駅付近。
最近しなの鉄道が復活させた色である。 乗り入れ先の妙高高原にもやってくるようだ。

2017年4月11日火曜日

山峡に響く

4月6日 信越本線塚山~長鳥間  3093レ  線路に並走する道路沿いの水田や畑には雪が多数。
聞こえるのは水路を流れる音とときおりうぐいすがなく・・・ただそれだけ。

2017年4月10日月曜日

DD53牽引の臨時団体

1987年4月 上越線小出 DD532+EF641000+14系3連+DE15という編成。 JR東日本新潟支社設立を記念しての特別編成。当時の新潟日報に募集があり乗車したもの。新潟からこの編成で走り、帰路はDD53を長岡で切り離しDE15+14系+EF641000という編成だった。見慣れない編成ゆえ沿線には相当な撮影者がいた。

2017年4月9日日曜日

雨の弥彦線を走る 115系N3 70系新潟色



弥彦線225M 東三条に到着
0番線に到着 日曜のこの電車は利用者が少ない。 折り返しの222Mも新幹線の便は悪い。
 北三条~燕三条
燕三条に到着 
 越後線南吉田~吉田間 139M
115系N40編成と並ぶ  吉田駅


沿線は桜も開花したがあいにくの雨のため駅周辺で・・・・・

貴重な場面を見ることができ何よりであった。

2017年4月8日土曜日

C57180 ばんえつ物語


本年度もSLばんえつ物語の運転が始まった。夜間撮影をしてみた。天空に煙を吐き上げラストコースへ・・・ なお、新津駅の列車接近メロディは汽笛が使われるが汽笛に乗って最新鋭E129系がやってくるのは愉快といえよう。

隣接する車両工場では山手線のE235系の製造が始まった。
ばんえつ物語撮影前に新潟市立新津図書館へ
郷土資料コーナーにて「新潟交通20年史」と「国鉄新潟鉄道管理局二十年史」があったので閲覧を。貸し出しはできないようである。ちょっと眺めただけだっがが新潟の鉄道の概要を知るには重要な資料である。
新潟交通の方はバス部門と電車事業をふくみ新潟電鉄時代の記述もある。写真、イラストも多く用いられている。国鉄の方は文章主体である。

ほかに「新潟の鉄道百年」もあった。「日本国有鉄道百年史」は見当たらなかったが。

中央の写真集高木敦子著「電鉄日和」は廃止直前の新潟交通電車線のようすを記録した写真集である。
駅の業務に携わる方や整備や運転業務関係者の日常も記録されている。
他に鉄道の街だけに鉄道専用の棚もあり充実していた。
読書のコーナーだけではなく自販機とラウンジもあるので一日調べ物も可能のようだ。
図書は入り口にセンサーがありセキュリティ対策もされている。
新津駅から歩いて15分くらい。駐車場もある。

2017年4月7日金曜日

日本海を走るE129系

E129系2連の信越本線普通列車。 人口密度の少ない長岡~直江津間の主力。

2017年4月6日木曜日

70系新潟色115系 3371M

来迎寺~前川間を走る快速列車3371M  70系新潟色のN3編成。

2017年4月5日水曜日

東海道本線を走るクモニ83

1985年1月1日 東海道本線を走る荷物電車でクモニ83の2連。 当時は荷物列車は多数運転され荷電は短距離で走っていた。クモニ83は宮原電車区の所属で姫路までの荷1043Mである。1往復運転されていたが1986年11月1日廃止された。

新潟交通電車の記憶

新潟交通電車線保存車両群  月潟にて。 モハ11、モワ51、キ116 1999年4月5日の廃止に合わせ保存のため月潟にやってきた。もう18年の歳月が経過した。 保存会が組織され冬は雪から守る養生がされ不具合個所の点検が行われているためか美しい状態を保っている。駅舎やホームも往時をしのばせている。
1993年7月31日 燕~月潟間が廃止・・・この時からはさらに24年近くがたっている。

新潟交通電車はあまり乗ることも多くなかった。
廃止の前年の3月にその年の3月31日をもって廃止される白山前~東関屋の区間を含めて乗ってみた。燕から新飯田にかけては水田を通過するので線形がよく60キロで走っていた。乗客はあまりなく一けた台だった。新飯田からは堤防沿いを走る。中ノ口川沿線の家並みが流れかなたに弥彦山を望んだ。線形は曲線が多く飛ばせなかった。白根で回送を後部に連結。乗客の方も座席がほぼ埋まる程度まで乗ってきた。白根駅はとくに白根市の代表駅というわけではなく味方村の西白根地区にちなんでいるそのためか駅舎は貧相で駅前にはこれといった町はなかった。(月潟の方が立派だったかもしれない)堤防沿いを走り抜け焼鮒あたりから新潟市近郊の風情が強くなる。国道8号も見え隠れして黒埼から新潟市に入る。 東青山で大半が下りてがらんとした状態で東関屋に。そこで回送を切り離して併用軌道を走り白山前についた。併用軌道は振動もなく思ったほど悪くなかった。
燕から1時間12分の旅であった。


2017年4月4日火曜日

E129系全盛時代到来か?

今回のダイヤ改正で一気に主力の座に就いたE129系。編成も4連または2連と4連をつないだ6連に絞られた。外観はもう国鉄時代の匂いは感じない。どちらかというと私鉄の電車のような印象である。
わずかに残った115系。新井方面への快速で走る。 


貨物はEF510とEH200とくれば国鉄の面影などあるわけもない。撮影も大手私鉄沿線風な方法になってきている。新時代である。ただしE129系のこのスタイルもいつまでもあるわけではないかもしれない。すこしづつ変化があるかもしれない。

クモユニ143とクモニ143~1985年

1985年3月  クモニ83の置き換えに転入してきたクモユニ143。 身延線色のまま運用していた。

2017年4月3日月曜日

クモユ141

1979年11月 上越線 上野から長岡に向かう723Mに連結されたクモユ141
郵政省所有の全室郵便車である。冷房完備。 国鉄のこの時代普通列車に郵便車や荷物車が連結されるのは珍しくなかった。 短い停車時間に手際よく積み荷を降ろす光景も見ものであった。

*クモユ141は1667年(昭和42年)に造られた初の新性能1M電車である。
台車単位の並列で端子電圧を1500V/2で750Vとして台車内の2個モーターを直列とする構成だった。主電動機は100kWのMT57で冷房はAU12を4基搭載していた。(鉄道ピクトリアル 931号2017年5月号 P21)

このころの近郊型電車は普通車はまだ冷房は搭載されていなかった。それどころか165系などの急行型も普通車は非冷房が当たり前の時代。

2017年4月2日日曜日

湘南色の新井行きの快速列車 3774M

4月1日 3774M 日の暮れかけた信越本線を走る。この日は国鉄が分割民営化されJRに移行した日である。30年が経過した。当時は国鉄から引き継いだ車両はまるで忌まわしいものを扱うように急激に塗装変更がされていった。そうならないまででもJRマークの貼付はほとんどの車両になされた。
社会的非難を浴び続けた赤字国鉄の痕跡を断ち切ることが急務だった。
115系も当初は湘南色だったが平成2年(1990年)ころには見られなかったようだ。いま気動車で残っている青と白の塗りわけに変更されていた。湘南色は結局首都圏などに限定される結果となった。

巨額の債務を抱え消え去った国鉄ではあるがいまは郷愁の対象らしい・・・・